なぜか珍しく後藤さんが夢に出てきたんで、ちょっと懐かしくなったから、思い出すままに書いてみることにする。
早いもので後藤章二師が亡くなってから15年も経った。
訃報を聞いて出向いた先には、多くのビリヤード関係者が駆けつけてたっけ。
ちなみに、常連仲間だった長州小力が芸人になったのを本人から聞いたのもこのとき(笑)。
出棺前には、後藤さんの姪っ子さんが一生懸命に挨拶文を読んで涙を誘った。
そう言えば、休日の午前中なんかに後藤さん、まだ小さなこの子の手を引いてスポーツランドに遊びに来ていたっけ。
本業のお米屋さんの前掛けに帽子っていう出で立ちで、足には雪駄をはいてた。
球を撞くときとは別人の顔だったな。
ところで、後藤さんのことを「ゴトッチ」って呼ぶ人がいるけど、これはごく親しい同世代の仲間だけだった。
おいらたち常連や、年下のプロからアマまで、みんな「後藤さん」って呼んでたと思う。
どっかのブログやサイトで「大将」なんて呼んでるのを見たことがあるけど、当時、そんなふうに呼んでいる人がいた記憶はない。
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さて……。
後藤さんのことで鮮明に覚えているのは、やっぱり球のこと。
いまだに後藤さん以上に驚かされたことはないし、あんな球を撞く人を見たこともない。
何と言うか、ひとことで表現するなら「職人のような球」を撞く人だった。
球を撞くペースは一定で、ゆったり、のっそりした動作ながら、構えてから撞くまでが早い。
ちょん、ちょん、パコーン!
常にこのペース。
で、特筆すべきは、その手球の動きだね。
意思を持った生き物みたい。
撞点の多さ、的確な選択から成せるワザなんだろうけど、悩むことがない。
本能的に手球をコントロールしている感じ。
おいらのイメージとしては、あのゴツイ両手に手球を包み込んで、こねくり回しているかのような・・・。
自分の手や指を動かして何かを取ったり掴んだりするのと同様、自然に手球を操っているっていう印象だったな。
そんなものを毎日見せつけられていたおかげで、ちょっとやそっと上手いと言われる球撞きを見ても、何とも思わなくなっちゃった。
ただね、ブレイクはカッコイイとは言えなかったな。
今とは違って、レール際から狙いすましてブレイクするようなスタイルは主流じゃなかったし、誰もが力で叩き割るっていうキラーブレイクを使ってた。
で、後藤さんのそれは、まるで手球の横っ面を殴りつけるような、ぶん殴るようなアクションだったから、よく真っ直ぐに当たるなと不思議に思ったくらいだった。
ただ破壊力はあったね。
なんせ、毎日米を何百キロも担いでるんだから、腕力はスゴかった。
おいらも腕相撲にはちょっと自信があったんで相手してもらったんだけど、ビクともしなかった。
ま、格好はともかく、それで何か球が入れば間違いなくマスワリなんだから、どうでもいいけどね。
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おいらが出会った当時、後藤さんが使っていたキューは、リチャード・ブラックの「アラモ」ってモデルだった。
こんなやつね。
腰はあったけど、かなり柔らかいキューだったって記憶している。
見越しもずいぶんと大きかったしね。
でもそれを魔法の杖よろしく自在に操っておりましたよ。
聞くところによると、その前にはタッドを使っていて、その当時がもっともヤバかったそうな。
内閣総理大臣杯やブランズウィックオープン(だったかな?)なんかを獲ったのもその頃なのかな?
なんでも、一度は引退して、7年ほど鮎釣りの世界にどっぷりだったそうだから、アラモを手に入れたのはその後なんだろうな。
おいらが新宿スポーツランドに出入りするようになった頃には、すでに後藤さんはインストラクターとして働いていたんだけど、どういう経緯で働くことになったのかは知らない。
新宿スポーツランドっていうお店について触れておくと、新宿を縄張りにしている人ならご存知だろうけど、三平ストアってのがあって、そこが経営していたんだね。
本館の4階、5階、、中央口店のB1、B2、3階、ニューサンパーク店の7階とあって、当時の「ハスラー2」ブームに乗っかって開いたみたい。
当時はあちらこちらに球屋ができていたからね。
で、その中央口店に後藤さんはインストラクターとして務めていたというわけ。
そんでもって、そこでおいらはアルバイトをしてたんですな。
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